友が逝きました…
絶対に逝ってはほしくない友が…
彼との出会いは23年前の春…大学の登校1日目でした。たまたま隣の席に坐った彼に県外から来た私が声を掛けました。
「学食どこか教えてもらえんかな?」
『よかよ!オレも今から行くけん、いっしょに行こか!』
400名の教育学部の中にあった、たった20名の特殊教育科。聞けば彼も同じ学課でした。
意気投合して学生時代の4年間はほとんど毎日のように彼と会いました。学校でもアルバイト先でも、遊ぶときも…
2年生の終わりごろ「塾を作ろう!」って仲良し3人組の誰かが言いだし、場所を押さえてチラシまで折り込んだことがあります。
…結果は失敗
それでも懲りずに3人でお金を出し合って家庭教師募集の新聞広告を出しました。3人で考えた文章は今も完璧に覚えています。
【夏期集中家庭教師承ります。短期・短時間で勉強のコツ教えます。 熊大教育学部 ○○・○○・山中】
問い合わせの電話が10本近くがあったように記憶しています。大学3年の夏休み、彼と2人で担当した3人兄弟のお宅へは毎朝、家庭教師に行きました。
サッカーと車が大好きで運動神経バツグンの彼…。余計なことは言わないけど、強い意志と周りへの細やかな気配りを忘れない友でした。
大学を卒業し、彼は志望どおり教職の道へ…もちろん、結婚式にもお互い出席。お互いに娘2人の4人家族…。
30歳を過ぎて私が長嶺に塾を開校するのと時期を同じくして彼も託麻東小学校へ赴任となりました。
お互い多忙な日々で頻繁に連絡をすることはありませんでしたが、近くで仕事をしているという意識は常にあったような気がします。
3年前の4月、大学時代の仲間から「今年は厄入りだから、17年ぶりに11名全員集まろうか?」との誘いを受け、大学時代の友だちが集まりました。
彼の自慢の新車を私の塾の駐車場に置いて、偶然同じ時期に買っていた私の車に彼も乗って2人で目的地へ向かいました。みんな17年ぶりに学生時代の気分で、酒を飲み、温泉に入りました。翌朝近くにあった神社に全員でお参りし…そこで記念撮影。思えば、その写真が元気な彼を写した最後の写真となってしまいました。
それから約1年後の3月下旬…
彼の教え子が入塾してきたので、いつものようにお母さんの目の前で彼の携帯に連絡を入れました。
「オレオレ!お疲れ!今度は○○くんが入塾してきたよ!」
『おう…』
「なんか珍しく元気ないなぁ?もしかして、転勤か?」
『転勤はなかったばってん、オレ…昨日の夜、救急車で運ばれて一晩意識が無かったったいねぇ…。』
「ん?どういうこと?」
詳しく聞けば聞くほど、その状況が普通でない気がしてなりませんでした。
入塾面談を途中で取り止めて、彼と共通の友人で、県議会議員をしている友だちに連絡を入れました。
「予感が当たって欲しくないけど、○○○が大変なことになったかもしれない…。その方面で最高の病院とドクターをすぐに調べて欲しい…。」
彼も状況を素早く察知し、万難を排して○○○の転院と検査の段取りをしてくれました。
それから1ヶ月も経たないうちに…彼は手術台へ乗ることになりました。手術の前日、出張先の鹿児島から彼の携帯に電話をしたのを覚えています。
「オレ、手術の経験ないから何も言えんけど、頑張れよ!」
『オレも無かばってん!頑張るのは先生だけん…大丈夫よ(笑)。おまえどこや?…そうかぁ運転気を付けて帰って来なんばい!』と。
心配していた私が逆に心配されてしまいました。
もちろん、手術は無事成功。退院後はしばらく自宅療養の日々が続きました。その後の経過も順調で、彼の体調が良いときを見計らって昼食を何回か一緒にしました。
すっかり元気になったいつもの彼…。私も周囲の友だちも完璧に治ったものだと思い込み安心し切っていました。
でも、いつだったか?!彼と電話で話していたとき…「最近、調子はどう?体調イイ?」という私の何気ない問いに対して…
『実はオレ…2回目の手術したったい…』
「えっ…」言葉を失いました。
それでも、彼の全快を信じてときどきメールや電話で連絡を取り合っていましたし、仕事の相談で教育関係の人にも会ってもらいアドバイスをもらったりもしました。
清水小学校に転勤して現場にも復帰したと聞き、「もう大丈夫、ただの取り越し苦労だった…」と思っていた今年の4月、聞きたくない知らせは突然やってきました。大学時代、一緒に家庭教師をしたもうひとりの友人からの電話…
「おい…○○○のこと知ってるか?いいか、落ち着いて聞けよ…○○○が4回目の手術をした。かなり良くない状態らしい。もしかすると、もうあまり…。」
「なんで…どうして……」
状況を把握したと同時に涙が止まらなくなりました。
連絡を受けてから4月中に2度ほど見舞いに行くことができました。
長くいると彼が疲れるからと私たちが帰ろうとすると、
『もうや?』と、私たちを気遣う言葉が…。考えてみればこれが彼の口から直接聞いた最後の言葉になりました。
たまたま5月19日の夕方、奥さんの携帯に電話を入れて、
「旦那の様子はどうね?調子イイ?」
「横におらすよー。うーん、ゴールデンウィークのころより3割ぐらい落ちたかな?…あら?横に首ば振りよらす(笑)。山中、オレは大丈夫って言っとらすごたる(笑)。」
「よかった(笑)。おどかすなよ。また、近いうちに見舞に行くって伝えといて!」
「わかったー!ありがとう。じゃぁねぇー。」
奥さんの明るい声に安心して電話を切りました。
その翌日、5月20日の夜に彼は還らぬ人となりました…。
通夜も葬儀も多くの教え子や保護者、たくさんの友人、関係者が来られました。…外は強い雨にも関わらず、焼香が1時間半も続きました。
彼の附属小中時代や北高時代の友人とも話をすることができました。みんなが口を揃えて言うことは…
「なんで○○○が…」
どの時代の友人と話しても、彼が人の陰口や悪口、愚痴や弱音を言ったことを誰も聞いたことがないというのです。
もちろん、私もそのひとり…
家族からも、生徒や保護者からも職場の仲間からも、そしてどの時代も友だちからも愛され慕われるオトコでした。
翌朝の出棺に立ち会い、彼の棺を友人みんなで抱えて彼が最後に乗る車に乗せて…迷いましたがとうとう火葬場までついて行ってしまいました。火葬場で彼の変わり果てた姿まで見たのに…
ここにいると今でも彼が塾のドアを開けて入ってくるような気がしてなりません。
『おぅ!お疲れ(笑)。最近、どげん?』…と。
友だちは誰ひとりとして亡くしたくはありません。でも、よりによって彼が…。そんな気持ちが集まった彼の友だち全員から伝わってきました。
家族にとっても友人にとっても、そして熊本の教育界にとっても大きな存在が突然消えました。
託麻東小で彼にサッカーや勉強を習った皆さん…、どうか彼のことを忘れないでください。元気にグランドを走り回ったり、教室で笑顔いっぱいに教鞭をとっていた先生の姿を…。
彼は最後の最後まで意識をしっかり持って生きるということの大切さと有り難さを私たちに教えてくれました。
無念だったでしょう…。死にたくなかったでしょう…。もっと、家族や友だちと一緒にいたかったでしょう…。彼の分まで頑張って生きなければと友だちの誰もが強く思いました。
空の上の友へ…
「○○○!もうスッカリ元気だろ?!そっちはどんなとこ?心配ないよ…こっちのことは、みんな元気でなんとかやってるから(笑)……23年間、本当にありがとう。また連絡するから!じゃぁな!!」
…
「そうそう、言い忘れてた!応援に行きたいって言ってた二岡中サッカー部の中体連、今年はオレが代わりに行ってくるから!」
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